聖書の物語になじみのある方はご存じかも知れませんが、キリストが生まれたのは、ベツレヘムの小さな馬小屋の中でした。母のマリアが臨月だった時、ちょうど住民登録が行われており、その登録のためにベツレヘムには近隣住民が多数押し寄せていました。
マリアとヨセフ(マリアの夫)が故郷のガリラヤからベツレヘムまで歩いた距離は140㎞。一日7時間歩いたとしても5日かかる行程です。しかも地形は山あり谷ありで、目的地のベツレヘムは標高700mですから、臨月のマリアには非常に辛い旅だったことが想像できます。住民登録のために訪れた人でごった返すベツレヘムに着くころ、マリアは産気づきます。
痛みに顔をゆがめるマリアを気遣いながら、ヨセフはマリアが横になれる場所、泊まれる場所を探して回ります。ベツレヘムの宿を片っ端から当たっても、どこも満室です。おなかを抑えてあえいでいるマリアを見ても、部屋を融通してくれる宿はありません。
それでも諦めず、宿から宿へ歩いた末、やっと、「満室なのですが、馬小屋で良ければお使いください」という優しい宿主に巡りあったのでしょう、二人はその夜を小さな馬小屋で過ごすことになります。
馬小屋であっても、雨風をしのげます。赤ちゃんを寝かせる場所もあります。マリアもヨセフも、受け入れてくれた宿主に心から感謝したに違いありません。そして宿主は、おそらく今夜であろう出産のために、お湯を沸かしてくれたのだろうと思います。
私には、西洋絵画に描かれている生まれたばかりのキリスト、母のマリア、父のヨセフの喜びの姿の後ろには、心に余裕があった優しい宿主の姿が見えるのです。
誰かの心の余裕がマリアとヨセフに居場所を与え、そこでキリストが生まれたと考えると、人間の「心の余裕の尊さ」を感じざるを得ません。