神戸のメンバーからこんなお便りが届きました。
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神戸の春の風物詩 いかなごのくぎ煮
今年は3月4日が、いかなご漁解禁日でした。
いかなご発祥の地とうたっている(何ヶ所かあるらしい)私の住む町では、
例年シーズンになると、
商店街の魚屋におばちゃん達の列ができ、
水揚げされたばかりのいかなごの到着を待つ間、
今年のいかなごの大きさと値段、各家庭のこだわりレシピ、
何キロ炊いて誰に送るかという、
ほぼ毎年同じ内容の会話がしばし繰り広げられた後、
いかなごが到着するやいなや、みなそれぞれに持ち帰り、
しばらくするとあちこちの家からいかなごを炊く匂いがしてくる。
これこれ、あぁ春がきたなと思う瞬間です。
私は地元民ではないけれど、引っ越してきてすぐ、
この辺ではみんな炊くのよとお隣の奥さんに炊き方を
教えてもらって以来気に入って、
毎年母と2人で家内工場ばりにたくさん炊いては
田舎の親戚や友人に送りまくっていました。
ここ数年はいかなごの値段が高騰してたのと、
そもそもあっという間にシーズン終了となりタイミングも合わず、
遠ざかっていました。
今年も解禁日に1kg4,000円と聞いてたので、
高すぎる~😭と諦めてました。
たまたま今日、なんか電話の調子が悪いと呼び出され、
商店街付近の母の家に行った帰り、
ちょうどいかなごが水揚げされてきたとこに遭遇。
一応確認すると今日は1kg1,800円!これはお買い得✨てなわけで、
3年ぶりくらいに母と一緒にいかなごを炊いています。
吹きこぼれないギリギリの強火をキープして炊く火加減が難しく、
もう2時間くらいコンロ前で立ち尽くしてる感じとか、
母とあれこれしょうもない会話をする感じとかよい時間。
久しぶりに田舎の親戚に送れると喜ぶ母を見て、
親孝行な娘やろと恩着せがましく言い、
今日の晩ご飯ごしらえを母にさせている今です😁
今夜はいかなごとみんな大好きばあちゃんのご飯とで、
米の消費量が半端ないだろう見込みの我が家からでした。
みなさんは、いかなご炊きますか?
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銀座のメンバーからこんなお便りが届きました。
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ちょっと長い個人話です。
関西に嫁いだ叔母の義父なので、ワタクシとは血のつながりはない。
笑顔がすてきなおじいさまであった。
地元の産婦人科医として、長年たくさんの赤ちゃんをとりあげてきた。
50ccのスクーターでどこでも行く。
ワタクシも従兄弟もまだ幼かったころ、
叔母のうちのリビングで遊んでいて、
ふとみると、窓から顔だしてのぞいている。
「ユカコさんがいらっしゃってると聞きましてね。」とふらっと現れる。
忙しいからすぐいなくなるが。
そういや子供に対しても必ずきれいな言葉を使っていたなあ。
よく面白い話をしてくれたのだが
最後は必ずエグくてグロテスクなオチがある。
子供達がキャーキャー怖がると、
それをみてカラカラと笑っていた。
初対面のとき、母は当時流行っていた
ミンクの帽子をかぶっていたそうなのだが、
「おねえさまは、お若いのに総白髪でらっしゃるんですね。」
とか言われたらしく、
とにかく冗談いわないと気が済まないのよねえ。ほんとに面白い人だわ。
と、ことあるごとに話していた。
今ならわかる。あまり意味のない贅沢を揶揄したのだろうなと。
亡くなったとの報せに、仕事終わりに駆け込みでお通夜に参列した。
夜も更けた頃、親族だけがそろった場で、
誰も乗ってくるはずもない葬祭場のエレベータが上がってきて扉が開いた。
その場にいた人がみんな、
「あらおじいさまいらっしゃった。最期まで驚かすんだから。」
と笑った。そんな人だった。
何回目かの法要のとき、彼が残した日記と、書き付けをみせてもらった。
朧げな記憶なのはご容赦いただくとして、そこには
ラバウルに軍医として赴いていたこと、
仲間のほとんどが戦死して一緒に日本に帰れなかったこと、
自分だけが生き残って申し訳なく思うこと、
これからは帰ってこられなかった人たちへの償いの人生を生きるということ、
が書いてあった。
これを書いたのはおそらく20代くらいだったろう。
80歳と少しで彼岸にいくまで、ずっと朗らかだった彼が
そういう思いで生きてきたのかと。
でもそれはただの諦念ではなかったのだと思いたい。
大人になってから、ちゃんと話がききたかった。
聞いても、語らなかったかもなとも思う。
もう遅いけど。
「なんにもしないのに
こんなに長く生きさせてもらったのはみんなのおかげです
ひとりひとりの名はあげませんが
~~有縁無縁の人々に感謝しています
みんなの幸せを祈ります」
核家族化してから、こういう人の背中を
みることができなくなったのはとても残念なことだな。 |