ウィリアム・ブリッジズが、なぜ「変化(Change)」と「トランジション(Transition)」という二つの言葉を明確に区別するに至ったのか。その背景には、彼自身の痛みを伴う深い経験と、多くの人々との静かな対話がありました。
きっかけは、彼が長年務めた英文学の教授職を辞すという、人生の大きな決断でした。それは彼にとって、まさしくキャリアにおける「変化」の始まりです。しかし、彼に本当の衝撃を与えたのは、その変化の後に訪れた、心の内側での出来事でした。
教授という職を辞した瞬間、彼の社会的地位や日々の拠り所となっていたスケジュールは、あっけなく消え去りました。これは目に見える、外的な「変化」に他なりません。ところが、彼の心はすぐにはその現実に追いつけなかったのです。
その後の約一年間、彼は後に自ら「ニュートラル・ゾーン」と名付けることになる、いわば「空白の期間」を過ごします。「かつての自分はもういないが、新しい自分は何者でもない」。そんな宙に浮いたような、寄る辺のない不安の中で、彼は深い喪失感と混乱に苛まれました。「自分とは一体、何者なのだろうか」「これから何をすればいいのだろうか」。その問いだけが、頭の中を巡っていたといいます。
この辛い経験を通して、彼は一つの真実を痛いほど深く理解しました。
「変化」とは、ある日突然やってくる外的な出来事にすぎない。 しかし「トランジション」とは、その変化を受け入れ、適応するために、人が内面で経験する心の旅そのものである、と。
職を辞すという「変化」は一瞬で起こせても、それによって失われたものと向き合い、新しい自分をゆっくりと再構築していく「トランジション」には、これほど長い時間と葛藤が必要なのかと、彼は身をもって知ったのです。
自分だけが特別だったのだろうか。そんな問いを抱いたブリッジズは、やがて人生の転機をテーマにしたワークショップを開くようになります。そして、そこで彼の予感は確信へと変わっていきました。
ワークショップには、長年連れ添ったパートナーと別れた人、予期せず職を失った人、子どもの独立で心にぽっかりと穴が空いてしまった人、大病から回復したばかりの人など、実に様々な「変化」を経験した人々が集まっていました。
一見すると全く異なる境遇にある彼らが語る心の内側のプロセスは、驚くほど似通っていたのです。誰もがまず何かを「失い(終わり)」、混乱した「宙ぶらりんの時期(ニュートラル・ゾーン)」を彷徨い、そしてやがて「新しい何かを見出して(始まり)」いく。まるで示し合わせたかのように、皆が同じ心理的な道をたどっていました。
この発見は決定的でした。トランジションとは、彼個人の特殊な体験ではなく、大きな変化に直面した人間が誰もが通る、普遍的な心のプロセスなのだと。
ブリッジズの理論は、このようにして生まれました。それは、彼自身の孤独な内省と、他者の苦しみに静かに耳を傾ける共感の中から、ゆっくりと紡ぎ出されたものだったのです。だからこそ彼の言葉は、単なる理論としてではなく、変化という予測不能な時代を生きる私たちにとって、今もなお確かな羅針盤として静かな光を放っているのでしょう。