精神科医アーロン・ベックが作り上げた「認知療法」は今ではうつ病や不安障害の治療で世界的な標準となっています。そんなベックですが、キャリアの初期は、当時主流だったフロイトの精神分析を信奉していました。彼の革新的な理論は、ある一人の患者とのセッションにおける、決定的な「気づき」から生まれました。
1950年代後半、ベックは精神分析の理論に基づき、「うつ病は自身に向けられた怒りが原因である」という仮説を証明しようと研究に励んでいました。しかし、患者たちの話に耳を傾けるうち、理論と現実の間にズレを感じ始めます。
ある日のセッションで、一人のうつ病の女性患者がベックに対して不満を口にしました。精神分析的には、これは治療者への「転移」や抑圧された怒りの表れと解釈される場面です。しかしベックは一歩踏み込み、彼女に尋ねました。
「今、不満を口にしているとき、あなたの頭の中ではどんな考えが浮かんでいましたか?」
すると彼女は、意外なことを打ち明けました。彼女の頭に浮かんでいたのは、怒りではなく、「私ってなんて退屈な人間なんだろう。ベック先生を退屈させてしまっているに違いない」という自己否定的な考えだったのです。
ベックはこの、ふとした瞬間に自動的に浮かび上がる思考を「自動思考」と名付けました。そして、人々を苦しめているのは、無意識に抑圧された何かではなく、意識にのぼるこのネガティブな「自動思考」そのものであり、それがあらゆる憂鬱な感情を引き起こしているのだと看破したのです。
この発見は、心理療法におけるコペルニクス的転回でした。出来事が感情を直接生むのではなく、その出来事をどう捉えるかという「認知」が感情を左右する。このシンプルな真理から生まれた認知療法は、後に認知行動療法(CBT)へと発展し、私たちが自身の心の癖と向き合い、乗り越えるための強力な武器となっています。
ベックの功績は、私たち自身の「心の声」に耳を傾けることの重要性を教えてくれた点にあるのかもしれません。