こんにちは、
さのますみです。

(このメールは佐野珠美の個人セッションのクライアントさまでEメールニュースレター配信にご了解いただきました方へお送りしています。)

 

トップの写真は、「カーサの猫村さん」の一場面です。
猫村さんが働いている、カーサブルータス編集部。
(写真をクリックで、ウェブで全編読むことが出来ます。無料です。おもしろいです。)

熱い編集者二人は、会議で必ず対立。
激昂し会議のちゃぶ台をひっくり返したら、
「表出ようぜ」「おう」となって、場所を安全な「河原」へ移して
取っ組み合いの喧嘩をするのがルーティン。

自分と同じエネルギーと真剣さで、
河原で取っ組み合いの喧嘩をしてくれる相手が
いたら本当に幸せだなぁと
私は羨ましい気持ちがします。

お互いの違いをしっかりぶつけ合う。
その為の時間と場所をしっかりとって。

違いは更にくっきりと明確になって
相手に届く。
更に、お互いの共通するところが見えてくる。

良い雑誌を作りたい
という二人の共通する想い
は同じ。

まさに人と人が、深いところで 出会って、
更に、そこから何かが生まれてくるプロセス。


「喧嘩」や「取っ組み合い」は、
一つの「コンタクト」の方法。
かと、思っています。

人の内側は、それを多分知っている。
だから、それを求めてくる時がある。

コンタクトを作る状況設定は、
必ずしも「喧嘩」じゃなくてもいいんですよ。笑

けど、「喧嘩」が起こる時には、コンタクトへのプロセスが動いてる
可能性があると思うんです。

一方で、
「怒り」や「キレ」を社会の中で表出しちゃいけない
「感情のコントロールの出来ない人」の烙印を捺されてしまう
という「考え」があるのにも気づくと思います。

それは、本当に確かにそうです。

だからといって、自分自身の中に湧いてくる感情や
その源の、自分自身を立ち上がらせる依って立つところ
からも、一線を画してしまったとしたら、本末転倒。

そこは、しょっちゅうしょっちゅう思い出す必要のある場所です。
そこには、その人の生命とその人本来の質が息づいていると思う。


キレる人は、自分と同じくらいの実力とエネルギーと真剣さで
向き合ってくれる人がいると安心します。
そういう人の出現を待っている。
そして、そういうことはあまりないのも現実です。

そう、キレる人は、
「私は、真剣なのだ」
って、言葉があると思います。

そして、その底には、
この編集者のような、熱い思いが
自分自身を突き動かしている。はずだと思います。

この己の言葉を、体ごと実感して知ることが出来るのは、
同じ力で押し返してもらえた時なんです。

「ああ、これを待っていた!」と感じられる瞬間です。

いつでも、一つを知るのに二つ必要なんです。
自分を知るのに誰かが必要なんです。
だから、その誰かを探しています。欲しています。

押し返してもらえるから、それが拮抗しているから、
自分の力を実感出来ます。
これは、実にいい感じなんです。
安全な やり方なんです。

ただし、それをやる時、自分を大切にしているか確認する必要があります。
つまり、それを表現するに相応しい場所か?相手か?タイミングか?見極める必要はあります。

この編集者たちも、カーサブルータス編集部の中だから
それが許されていることを知っています。

むやみやたらに
日常の場面で表現された場合、
多くの場合は、諌められるか、人は恐がってしまいます。

あぁ。。

なので、自分の言葉「私は、真剣なのだ」まで至らず、
「私は、ダメだ」「退場だ」だけが真実味を増したりしているかもしれません。

そして、エネルギー自体は、行き場をなくします。
身体の中に潜り、息を潜めます。

自分の力を、純粋に実感する機会を得られず、
「コレは、出したらマズイもの」と封印。
自分自身も、自分自身の核となる程重要なものに対して、そんなレッテルを貼っている可能性があります。
だけど、エネルギー自体は、次の出現の機会を待っています。

個人の「怒り」や「キレ」の発露によって、
ニュースとして報道されるほど大きな事件が
度々起こっているなぁと思うんです。

私自身、自分の「怒り」や「キレ」と長年つき合ってきた、という自覚があって、
こんな事件が起こる度に、事件を起こした人の方へ自分の思いが伸びていくのに気づきます。

勿論、被害にあった人、犠牲になられた人を悼む気持ちがあります。罪の重さというのを感じます。同時に、残念な気持ちがあるのに気づきます。

 
そもそもは、内側の根底にある自分自身のニーズに触れる為に
実力拮抗するパートナーを探してたはずなんです。

ここは、気づき難いところです。
言語化がされてないことが殆ど。。

その感覚を、素通りしてしまう、
掴み損ねている。

更には、
「自分は粗暴なのだ」と勘違いしたまま自暴自棄に表現してしまう。

あぁ。。自分に対して雑だよ。(わかるけど。。)

放火したり、人を殴ったり してしまうと、
目の前にせっかくいるパートナー候補を失くします。
いや、パートナーどころか 誰も居なくなって
挙げ句の果てには、檻に入れられて。。。

ニーズと手段が入れ替わってしまっています。

そもそも、「河原で取っ組み合い」は、
良い紙面を作る為の編集会議の為のルーティーン。
つまり、向き合うべき相手とより向き合い、話し合いの席に(心理的に物理的に)より座れる為の手段。
喧嘩でぶん殴って相手を殺すことが、目的やニーズじゃない。
ましてや自分の粗暴さの証明じゃない。

自分自身との対話がされていたら。
自分の底に確かにあるニーズに触れることが出来ていたら。

手段とニーズを取り違えなかったはず。
自分自身を誤解しなかったはず。

残念だよ。
自分をもっと大切に扱うやり方は?

だから、自分自身の生命のそばにずっとある、
自分のニーズに触れる機会を しょっちゅうしょっちゅう
自分に与えてあげることは、自分が自分に出来る責任でもあると思います。

どんな人も、ニーズ・願い・想い を持っている。
自分にとってとても大切なもののはずなのに、
本当にこれは忘れてしまうんです。不思議なことに。

だから、それに触れたり、更にそれを言葉にしていく作業を
何度もやる必要があります。
出来たら、毎日でも。(ベーシックプラクティスが助けになります)

自分が生きていく時の「動機」を思い出す機会とも言えます。
自分の滋養になります。
自分が地に足をつけた感覚があるはずです。
自分を忘れない為のルーティンになります。

セッションや、ワークショップで
クライアントさんがご自分自身でそれに触れていくのを
目撃すると、
しょっちゅう感激して泣いています。(なるべくワークの邪魔にならないようにしています。)


〜〜〜

ところで、
「喧嘩」一択
どうしても競ってしまう
勝とうとしてしまう

私自身が、人との関わりでこれ一択の世界に生きておりました。そして、あまりに自分自身の在りようと一体化していた為に、そのことに気づいてすらいませんでした。
その背景には、私が育った家庭の中での文化があります。また、時代の影響も関わっていると思っています。生きていくのに「競い勝っていく必要があった」のも確かです。

その歴史自体は、変わりませんし、そのまま尊重したい。その中には、払われた勇気やとったリスクがある。ありがとうとかつての私に伝え、労いたい。

そして、その上で、大人として、成熟とは何か?と探求したいのです。

自分自身の人生を生きていく時に、誰かと関わり合っていくことが必要です。出会い=争い では、不具合が生じます。人生を狭めます。狭めてもいいんですけど、無自覚だったら勿体ないかもしれません。なんでかっていうと、私にとって「喧嘩」はコンタクトの一つだったからです。手応えのあるコンタクトです。良くも悪くも。

ゲシュタルト以降の私は、「ものすごくコンタクトを欲している」ということがわかりました。そして、それまで、「争う」っていう選択肢しか使ったことがない。ということもわかりました。しかし、それが気づきの中に入っておらず、言語化されていなかったことから、不具合を避ける為に、「独りに慣れる」訓練ばかり積むということをしていました。
「独りで平気」と装う訓練もしました。いやはや。。
上手くはなりました。が、緊張と悲しみを増やしたように記憶しています。

ゲシュタルトに出会い、自分自身を探求するよろこびを知りました。が、自分自身の「怒り」、特に「キレ」に手をつけるのはだいぶ後になりました。

〜〜〜

「怒り」をワークで取り扱うのには、勇気が要るかもしれませんね。
ワーク中、無理やり自分をプッシュしてる感じがあったら、それに気づけると
自分自身を安全に保つことが出来ます。
その感覚は、何が自分にとってサポートになるか教えてくれます。
それは、どんな場面でも、場に健全さを呼び込みます。

実は、それは、そのまま、レッスンになります。
人生で、何か大波に出会った時、「気づき」を発動出来る力がついている自分に気づくかもしれません。

何かを解決しようと、ワークに臨むかもしれません。それは、いい「動機」になるかもしれませんが、その答えを出すことが必ずしも最重要ではないです。ワークの時間・体験は、そのまま人生をやっていく時のレッスンになってるんです。

それは、大いに成熟化に貢献します。

ここが、ゲシュタルトのワークをライフスタイルに取り入れる意味です。

そして、いつしか解決しようとしていたテーマが、自分のリソースだと、自分の血であり肉であると、気づくかもしれないです。あなたはその時自分を誇りに思うでしょうね。

私は大人で、それも悪くない。
と、ワークの最後にニコリと笑顔で言ったクライアントさんがおられたことを
いま、思い出しています。

ふぅ〜
呼吸〜〜〜

ありがとう。

私自身が自分を実験台にプラクティスしている
探求者として
みなさまとの出会いに
心から感謝の気持ちです。


読んでくださって、ありがとうございます。

ゲシュタルトの気づきの場で
お会いできますことを願っています。

感謝を込めて

佐野珠美





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