前回の続きです。
(バックナンバーは
こちら から)
出向先の工場の閉鎖が
決まったのは
2001年の12月でした。
そして帰国は
翌年3月となりました。
そこまでの3ヶ月間は
新規の仕事はもちろんなく
残務整理のみでした。
私の場合は、
他の出向者と比べて
正直残務整理らしき仕事は
ほとんど
ありませんでした。
そこで
何をやっていたかと
言えば
HTMLという
ホームページを
作成するための言語や
VBAという
エクセルのマクロ等で
使用する言語での
データベースの
扱い方などでした。
その当時は
全然自覚はなかったけど
今思えば
「収集心」「学習欲」
でいろんなことを
独学で習得していました。
だからその3ヶ月は
さほど退屈には
感じなかったし
そこで習得したことが
その後の業務効率化の
改善活動にも
大いに役に立ちました。
例の彼とは
どうだったかと言うと
もう仕事らしい仕事は
なかったわけなので
お互い何をやっているのか
知らない感じだったと
思います。
本来であれば
その期間を活用して
彼との関係性の修復に
当てるべきだったのかも
しれませんが
その当時の私は
そういうことに
自分のエネルギーを
使うおうとは
微塵も思いませんでした。
そうこう
しているうちに
いよいよ帰国の時が
やってきました。
そこで思い出すのは
現地の同僚たちから
掛けられた
思いやりに満ちた
言葉です。
彼らは異口同音に
自分たち日本人のことを
心配してくれました。
「日本に帰ったら
仕事はあるのか?」
と。
もちろん日本人の誰も
そんな心配やしていない訳で
そうやって
声を掛けてもらうたびに
何だか申し訳ない気持ちに
なったのを覚えています。
そして私と彼は
それぞれに出向元に
戻ることとなり
直接の接点は
なくなりました。
それでも、
そこは何だろう
自分なりのプライド
だったのかなぁ。
しばらくの間は
彼に対しても
年賀状での挨拶は
続けていましたね。
ホント、
どうでも良い
ささやかな抵抗というか
プライド
だったんだろうなぁ。
帰国して2年後に
マネジャーに昇格しました。
そしてその年の夏に
社内研修として
コーチング研修を
受けました。
こう書くと、
それが人生の岐路と
なったんだな…と
思われると思いますが
実際はそんな展開でも
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ここで書いていることは
繊細な内容なので
皆さんの心の内にだけ
留めておいてください。
その前提で
自分のダメっぷりを
赤裸々に書いていきます。
ちょっと耳を
いじりすぎたせいか
耳がかゆくて
そのうち痛みも
出てきたので
先ほど病院に
行ってきました。
その病院では
WEB予約受付を
やっているので
直接病院に行かなくても
大体どれくらいで
診察が受けられるか
わかるので便利なのです。
特にコロナ渦にあって
待合室の混雑解消にも
役立っているみたいで
多くの方が
駐車場の車の中で待機し
待合室は
がらーんとしていました。
この病院は人気が高く
いついっても
待合室が
いっぱいだったので
なんだか違和感を
感じました。
こういうのは
今後コロナ云々関係なく
踏襲されていくの
でしょうね。
こうやって
多くのことに対して
今回のコロナが
今までの常識を
変えていくんだなぁと
思った次第です。