■ 予習とは「知恵比べ」である
当然ながら、この物質名詞 mouthに関しては安井先生も脚注にて解説を加えられていたわけですが、ページ下部の脚注に視線が到達する前に同じポイントに反応できたというところで、ガリレオとしては嬉しくなるのです(*´ω`*)
同じようなことは、院生時代に安井先生がご担当の学類生向けの一般英語の授業に TA (Teaching Assistant)として参加した際にもあった。その授業のテキストは
Mary Poppinsであり、ガリレオも予習の上で聴講させて頂きました。
予習の際、自らに課していたのは、先生が授業中の解説で取り上げるであろうポイントをあぶり出し、解説の切り口を予測しておくというもの。文法・語法の解説について言えば、当時からまずまず接近できていた自負はあるものの、英国文化や作品の社会的背景の面など、常に予習の上を行く知識が与えられる授業は圧巻でした。
よく「読書は筆者との対話である」ということが言われるが、思うに英語講読演習タイプの授業に臨む予習のあり方とは、師と筆者による知的対話に自分がどこまで迫れるか?…という知恵比べなのではないだろうか。冒頭の mouthの例のように、師と同じポイントに同じタイミングで反応できることが増えればそれが学習上の進歩であるし、教師の立場から言えば、生徒がどこまで予習してこようが追い付かせないような、知的対話の深淵を範として示さねばならぬ。
もっとも昨今の英語教育界においては、テキストの精読という活動が教室から消え去り、もはや風前の灯火と成り果てている。よって、上で述べてきた「英語の予習かくあるべし」というのも、そもそもの授業スタイルと合致する場面は少ないかもしれない。
しかし、"コミュニケーション"の場で本当の意味で使いこなせる英語表現とは、自ら深く思考を巡らし「腑に落ちた」もの。例えば mustと have to, 過去形と現在完了形など、理解していなければ、いくら「間違いを恐れずに、なんとなくでも伝われば良いんです!」などとノーテンキ精神論でハゲまされたところで、どうしても迷いが生じるものなのである。この「腑に落ちた英語表現」を積み重ねるには、精読×量が欠かせない。
それにあたり、テキストに潜む「お宝」をごっそりと掘り起こして見せてくれる案内人に出会えるのは貴重なことである。ガリレオ自身、安井泉先生に少しでも追いつき、いつの日かこの高くそびえ立つ壁を超えてみせるべく、新年早々に改めて学者/教師として襟を正す機会となった読書体験であった。